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2025.10.26 / よもやま話

父と娘の東北旅行3 岩手前編

2日目の夜は岩手県北上市のホテルに宿泊。近所に盛岡冷麺の店があると聞き、行ってみると普通の焼肉屋でした。岩手県の焼肉屋は、冷麺だけを頼む人もいるので「火を付けますか(=焼肉も食べますか)」と聞くそうなのですが、娘が「やったー焼肉」という感じだったので、焼肉も注文してしまいました(笑)

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岩手県は北海道に次いで2番目に大きい都道府県です。2日間で全域を回ることには無理があるので、盛岡や八幡平のある北部へ行くのは諦め、3日目は岩手県南部を横断することにしました。最初に訪れたのは、民俗学者・柳田国男が書いた『遠野物語』の舞台であり、民話の里である遠野です。

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まずは「南部曲り家・千葉家」へ。千葉家の主屋は江戸末期(約160~190年前)に建てられたもので、「曲り家(曲屋:まがりや)」と呼ばれる形式の民家です。宅地が道路より高いため、前面に長大な石垣が築かれているのも特徴です。主屋・土蔵・石蔵・稲荷社・大工小屋などが国の重要文化財に指定されたのは2007(平成19)年と最近のことで、2013年に遠野市が土地・建物を公有化しました。2016年から始まった大修理は今もまだ続いていて休館中のため、下から見上げることしかできませんでした。

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遠野には幾つかの観光スポットがありますが、私たちが訪れたのは伝承園です。ここには佐々木喜善記念館、重要文化財民家・菊池家、オシラサマを祀ったオシラ堂などがあります。『遠野物語』は若き日の佐々木喜善が柳田国男に語った遠野の話が素になっており、記念館は佐々木喜善に関する資料を展示しています。

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菊池家の建築年代は18世紀後半頃と推定され、前述の千葉家と同様に、厩(馬屋)と土間を主屋部分から突き出したL型平面の「曲り家」という形式です。曲り家は東北地方を代表する民家形態で、岩手県南部と北関東の一部に見られます。岩手県下の曲り家は、盛岡藩が馬産を奨励したためでもあり、当初は長方形平面の直屋(すごや)だった家に馬屋を増築した例が多く、この菊池家もそうです。

菊池家民家の裏側から渡り廊下(現代の増築)で繋がれたオシラ堂という建物があり、千体のオシラサマが壁一面に展示されていました。ちょっと不気味な感じもしますが、オシラサマ(おしら様)とは、東北地方で信仰されている家の神で、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされています。

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オシラサマの成立にまつわる悲恋譚があり、「昔ある処に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して(中略)終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、(中略)馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。(中略)忽ち娘は其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。」と『遠野物語』第六十九話に書かれています。

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伝承園の近くに常堅寺という曹洞宗の寺院があり、その裏を流れる小川に「カッパ淵」と呼ばれる場所があります。

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小川の淵にカッパが多く住んでいて、人々を驚かせたり、いたずらをしたと言い伝えられているためです。『遠野物語』第五十七話にも「川の岸の砂の上には河童の足跡と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。」と書かれています。

遠野を出て三陸海岸沿いの釜石に向かいました。釜石と言えば、私の年代だと社会人ラグビーの新日鉄釜石が思い浮かびます。新日鉄釜石は「北の鉄人」と呼ばれ、スタンドオフの松尾雄治に率いられて1979~1985年の日本選手権で7連覇した当時最強のラグビーチーム。赤いユニフォームが瞼に焼き付いています。

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そういう訳で釜石はラグビーの町として全国に認知されており、日本で開催されたラグビーワールドカップ2019の開催都市にも立候補。東日本大震災の復興計画として新設された釜石鵜住居復興スタジアム(かまいしうのすまいふっこうスタジアム)は仮設設備を含めて16,020人(仮設席撤去後は6,130人)収容と最低限のキャパシティーですが、フィジーvsウルグアイの1試合が行われました(2試合予定されていたうち、豪雨で1試合が中止になったため)。

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仮設席が撤去されたため、メイン・バックスタンド以外は芝生席になっていて風景に溶け込んでいましたが、メインスタンドに腰掛けて、ここでワールドカップが行われたことを想像しました。

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ここ釜石市北部の鵜住居町は、東日本大震災で発生した津波により死者・行方不明者1100人を超える甚大な被害を受けました。三陸鉄道リアス線・鵜住居駅前には「釜石祈りのパーク」が造られ、慰霊碑と津波の高さ(鵜住居駅前地区における津波浸水高:海抜11m)を示すモニュメントがあります。

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ここでは二つの対極的な話が語り継がれています。一つは、低地にあって避難場所ではなかった「鵜住居防災センター」が防災訓練の拠点になっていたため、震災当日に150人以上の人が逃げ込み、生存者わずか34人だったという「釜石の悲劇」。
もう一つは、津波で4階建ての校舎が水没する被害を受けた釜石東中学校と鵜住居小学校で、中学生たちは何度も避難場所を変えながら、さらには小学生や幼稚園児の手を引いて高台めがけて避難。休みで自宅にいた生徒など5人の命は失われてしまいましたが、登校していた小学生1927人、中学生999人は全員無事だったという「釜石の奇跡」です。
無知を恥じるばかりですが、私は釜石でも甚大な被害があったことを知りませんでした。芳名板に刻まれた犠牲者の多さに驚き、改めて津波被害の恐怖に思いを致しました。

次に訪れたのは大船渡です。大船渡も津波被害に遭っているので、港の近くは新しい街づくりの途中という感じでした。

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「かもめの玉子」で有名な「さいとう製菓」本社は大船渡市にあり、復興エリアに「かもめテラス/三陸菓匠さいとう総本店」があります。「かもめの玉子」は新幹線のホームでも販売されていますが、本拠の大船渡で買えたことにちょっとした達成感がありました。

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私は初めて知ったのですが、「かもめの玉子」にはレギュラーサイズとミニサイズがあることを知っていますか?
お土産をここでまとめ買いしつつ、喫茶コーナーで販売している「かもめソフト」を注文。これは、かもめの玉子の黄味餡をモンブラン風にしぼり、ホワイトチョコの羽をあしらった、贅沢なソフトクリームです。

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次に訪れたのは陸前高田です。陸前高田市は東日本大震災の死者・行方不明者が1750人以上で、宮城県石巻市に次いで、岩手県では最も大きな被害を受けました。18.3mという高い津波によって、海岸線に広がっていた「高田松原」と呼ばれる約7万本の松林が消失し、中心市街地が壊滅状態になったのです。

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震災前にも高さ5.5mの防潮堤がありましたが、震災後には高さ12.5m、全長約2kmの防潮堤が再建されました。数十年~百数十年に一度の11.5mクラスの津波に耐える巨大構造物のため、陸側から海が見えないのはもちろん、向こう側に海岸のある気配すらしません。津波でほとんど流された町は都市計画によってかさ上げされ、道路が通る場所も変わっています。海と共棲していた町の姿、景色が様変わりしたことは、初めて訪れた私が見ても一目瞭然で、胸が苦しくなりました。

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陸前高田と言えば「奇跡の一本松」が知られていると思います。「奇跡の一本松」を目指して行くと、そこには「高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設」がありました。
駐車場に車を停めると、水平線を強調した建物に迎えられます。中央の大きなピロティを挟んで東側は「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」、西側は道の駅「高田松原」になっています。

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ピロティを通り抜けて海側へ出ると、追悼の広場や献花の場が設けられていて、その先に防潮堤がありました。

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防潮堤に沿って歩くと、「奇跡の一本松」が立っていました。約7万本あった高田松原の松林の中で、震災の津波に耐えて奇跡的に残った姿から、復興の象徴となった松の木です。その隣には全壊した陸前高田ユースホステルの建物も残されています。「一本松」が残ったのはユースホステルが防波堤になったことや、22.7mある木の下側(津波高さ約10m)に枝が無くて瓦礫が引っ掛からなかったことが要因だそうです。

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震災後に一本松の保存活動が行われましたが、長時間水没していたことで根が腐ってしまい、その年の暮れには生きた状態での保存を断念。翌年からモニュメントとしての再生プロジェクトが始動しました。それは、幹の中心部をくり抜いて金属製の心棒を通し、コンクリート製の基礎+根本部分の上に立てるというもので、枝葉部分は保存ができないため、ガラス繊維強化プラスチックと合成樹脂で精巧に再現されています。
保存費用が1億5000万円と高額なこと、被災者への支援を優先すべき等、一本松の保存活動には反対意見もあったそうですが、被災地としての陸前高田の記憶を語り継ぐシンボルとして、東日本大震災津波伝承館とともに、多くの人に訪れてほしい施設だと思いました。(つづく)

岸 未希亜

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