次に訪れたのは出羽三山(でわさんざん)の一つである羽黒山。出羽三山とは羽黒山、湯殿山、月山(がっさん)の総称で、全国有数の山岳修験の山として知られています。鶴岡から羽黒山に向けて一本道を走ると、長閑な風景の中に朱塗りの大鳥居が現われました。
この鳥居は、2018年に3億円の費用を投じて建て替えられた特殊鋼板製で、高さ約24メートル、最上部の笠木の幅は約32メートルもあります。先代は1929(昭和4)年に山形市の吉岡鉄太郎氏が寄贈したコンクリート製の鳥居で、高さ18メートルと一回り小さかったそうです。
羽黒山の玄関口である随神門の手前に、手向(とうげ)と呼ばれる門前町があります。
ここは山岳信仰の修験者が住み、参詣人をその家に泊める宿坊が建ち並ぶ町です。先日紹介した長野県戸隠と同種の町並みですが、戸隠の宿坊群が斜面に広がっていたのに対し、ここは街道の両側に整然と宿坊が並びます。現役の宿坊は30軒余りになっていますが、江戸時代には360もの宿坊があったとのこと。
大きな特徴は、宿坊だけでなく、一般の家にも木製や石製の独特な冠木門があって、注連縄が(しめなわ)が掛かっていることと、羽黒山松例祭の引き綱(年越し神事で使用した縄を各家が魔除けとしたもの)を屋根下に掛けていることです。かつての宿坊は、寄棟屋根に唐破風に似た玄関を付けた重厚感のある茅葺き民家でしたが、現在は瓦葺き等の新しい家になっていました。
しかし、ハウスメーカーで建てたような家は見られず、地域や町並みに対する住民の意識の高さが感じられました。
調べてみると羽黒町手向地区は、第17回住まいのまちなみコンクール(2021年度)で「住まいのまちなみ賞」を受賞しています。歴代の受賞地域の多くはニュータウンや現代の住宅地ですが、その中で手向地区が選ばれたのは、景観の保全や創造といった現在進行形のまちづくり活動の賜物なのでしょう。
宿坊群を抜けると鳥居が現われ、その奥に真っ赤な随神門があります。ここから山頂までの参道は、2,446段の石段が続く約2kmの道のりで、正に修験道といった趣きです。
参道を少し進むと左側に五重塔が現われます。これは平安中期に平将門が創建したと伝わるもので、1372年に再建された現在の塔は、基壇が無く、初層に縁を設けた純和様の手法になっています。中央から遠く離れた地にありながら洗練されていて、中世を代表する遺構として国宝に指定されています。
しかし屋根の杮葺きを修復するため、周囲を足場とネットで覆われている状態でした。修理中であることは事前に知っていたのですが、やはり目の前にすると残念な気持ちしかありません。荘厳な杉木立の中にひっそりと建つ五重塔は、奈良の室生寺のような神秘的な風景だったと思うので・・・
このまま参道を歩くのが正規のお参りコースですが、車で山頂へ向かう楽ちんコースもあります。五重塔が工事中ということ以外よく調べていなかった私は、山頂には車で行くものと思っていて、実際は随神門や五重塔をパスして先に車で上がってしまいました(笑)
羽黒山の山頂にある出羽神社(いではじんじゃ)には、三山の神を合祭した三神合祭殿があります。冬の間は豪雪で月山や湯殿山が閉鎖されるため、ここで一度に参拝できるようにしてあるそうです。
三神合祭殿は、日本最大級の茅葺屋根をもつ権現造りの建物で重要文化財です。下から見上げると建物そのものも大きいのですが、厚さ200cm以上という分厚い茅葺き屋根も威容を誇っています。そして三角の破風と唐破風が二重になった姿は、妖しげな雰囲気をまとっていました。
出羽神社の境内には、様々な社が建っています。その一角に7棟の末社が並んでいる場所があり、その一つには草履や靴がいっぱい供えられていました。これは健角身神社といって、足の弱い者が下駄を供え、健脚を祈る風習があるのだそうです。
そして表参道石段の終点鳥居と本殿の間には、出羽三山の開祖・蜂子皇子を祀る開山堂があります。小さいながらも三手先の組物で軒を大きく跳ね出し、精緻な彫刻もあって見応え十分。明治初期の神仏分離によって蜂子神社(はちこじんじゃ)と改められています。
山形県と秋田県が最も暑かったこの日、参拝を終えて鳥居の下に続く石段を下りていく人もいました。改めて、この2,446段の石段を登って来てこその修験道だということを、思い知らされました。
午前8時半頃にスタートした7時間半の旅を終え、羽黒山を出たのが午後4時です。最上川に沿って東上すると、車窓から「最上川舟下り」の船を見ることができました。松尾芭蕉が「五月雨を あつめて早し 最上川」と詠んだのはこの辺り(最上峡)だそうです。
そして羽黒山から76kmの道のり、車を1時間半走らせて着いた今夜の宿はここ、銀山温泉です。娘から「ここに行きたい」とリクエストがあった、この夜景写真は有名ですよね。
銀山温泉の呼称は、江戸時代初期に大銀山として栄えた「延沢銀山」の名に由来していて、温泉街の奥には銀鉱道の跡が残され、国の史跡に指定されています。銀山の衰退後に人口は激減し、尾花沢から難路で丸一日かかる辺境の地でもあるため、湯治場としてひっそりと在ったようです。
1913(大正2)年、銀山川の大洪水でほとんどの温泉宿が流されてしまい、温泉の湧出量減少や温度低下で温泉街は衰退。しかし1926(昭和元)年に高温多量の湯が湧出し、各旅館は一斉に洋風の木造3~4階建て旅館に建て替えを行います。戦後は温泉街の洋風化も落ち着き、外観が和風に近づいていったことで、今日の銀山温泉の姿となりました。
現在では木造の中高層建築なども登場していますが、戦後は3階建て以上の木造建築を造るのが法的に難しかったため、木造らしさ全開の3~4階建て旅館が並ぶ景観は非常に珍しいのです。私が他に見たことがあるのは、兵庫県北部の城崎(城崎温泉)ぐらいです。
山間かつ川沿いということで、建物が建てられる場所も銀山川を挟んだ狭いエリアに限られます。建物が密集しているので、どの建物も川に向けてしか窓が取れず、それが3~4層あるガラス面になっているため、旅館の中は丸見えですが、旅館の灯りで華やかな夜景を見せているのです。
日本の一般的な町屋建築の場合、正面は漆喰塗りの虫籠窓や細かい竪格子なので、こんなに光は漏れてきません。銀山温泉の夜景が魅力的な理由がよく分かりました。(つづく)
岸 未希亜