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2014.02.17 / 建築と住まいの話

卒業旅行で巡る日本の町並み6

17年前の卒業旅行を再現する町並み歩きの第六弾ですが、連載スタートから1年近くになり、「18年前」になってしまいました(笑)
今日は8~10日目の行程をお送りします。
その前に、前回お伝えした津和野(島根県)ですが、2013年8月に重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選定されていました。
昨年は合わせて4件が加わり、重伝建地区は106ヶ所になっています。
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8日目の午前に津和野を訪れた後、3輌編成の特急列車「おき」に乗って、大田へ向かいました。念のため指定席を取っていたのですが、車内は閑散としていて全くその必要はありませんでした。
益田駅から山陰本線に入ると、所々に漁村があったり、駅が近づくと民家が増えてきたりしますが、それ以外の場所では右手には自然豊かな陸地、左手には蒼く荒々しい日本海という景色が広がっています。

大田市駅からはバスの本数が少なく、やむなくタクシーに乗って訪れたのは、市の中心から外れた山の中にある「大森銀山(おおもりぎんざん)」です。

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ここは昭和62年に重伝建地区に選定されていますが、当時は知る人ぞ知る地味な町並みだったため、平日ということもあって観光客は皆無でした。しかし2007年に、「石見銀山(いわみぎんざん)」として世界遺産に登録されて脚光を浴び、瞬く間に多くの観光客が訪れるようになったのは、記憶に新しいところです。

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この大森は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて銀を豊富に産出した鉱山町です。戦国期に大内氏、尼子氏、毛利氏が銀山の領有を巡って争った後、関が原の役で天下人となった徳川家康が、いち早くこの大森を天領にしました。その頃から産出量が急増し、江戸の人口が40万人の時に大森の人口は20万人だったという記録が残っているほど、町はシルバーラッシュに沸いていたようです。両側に山が迫る細長く狭い町を見れば、20万という数字には疑わしいものがありますが、宝の山を持つ町ということで何万人もの人が移り住んだのは事実のようです。幕府の重要な資金源となった銀山は50年ほどで産出量が激減し、人口も減少。大正12年に閉山して以来、時が止まったかのようにひっそりと存在しています。
町は谷間を走る一本の坂道に沿って家が並んでいて、町人の住む町家と武士の住む屋敷が混在しています。現代にあっては不便な場所だと思いますが、実際に人々が暮らしていて、しかも町並みがしっかり保存されているのは驚きです。ここも石見瓦の赤い屋根が華やかさを感じさせ、とても印象的な町並みでした。

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町を抜けると「間歩(まぶ)」と呼ばれる銀山坑口が残された場所が幾つかあり、その一角に羅漢寺という石窟寺院があります。石造の小さなアーチ橋が並ぶ風景は、異国情緒を感じさせました。

この日は重伝建地区の中にある旅館「ひろた屋」に泊まりました。3月4日というのに外はまだまだ寒く、夜は雪が降ってきました。
続く9日目は、町並みよりも2つの建築がターゲットでした。大田市駅から山陰本線で出雲市駅へ行き、一畑電鉄に乗り換えて向かったのは「出雲大社」です。

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「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を祭神とする出雲大社は正式には「いずもおおやしろ」と読みます。このオオクニヌシについては、『古事記』と『出雲国風土記』で記述の違う点があるなど、創建については諸説あります。
私たちがよく知る出雲大社の話は、全国から八百万の神々が出雲に集まって日本中から神様がいなくなる10月を神無月と呼ぶことや、縁結びの神として信仰されていることでしょう。ガイドブックには45円(しじゅうごえん)の賽銭を投げ入れると願いが叶うとあります。

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仏教伝来以前に、日本独自の建築様式として編み出された神社(本殿をもつ神社)は、「住吉造り」「大社造り」「神明造り」の3タイプに分かれます。住吉造りの代表例は大阪の「住吉大社」、神明造りの代表例は「伊勢神宮」、そして大社造りの代表例が「出雲大社」です。建築的な造形美もさることながら、高さが8丈(約24m)もあって神社建築の中で最も大きく、荘厳な雰囲気を感じました。

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20年ごとに本殿を全く新しく造りかえる伊勢神宮の式年遷宮は有名ですが、出雲大社もほぼ60年ごとに遷宮が行われます。奇しくも2013年は両者の遷宮が重なる「ダブル遷宮」となりました。
遷宮とは、御神体や御神座を本来の場所から写して社殿を修造した後、再び御神体を元の場所に戻すことで、必ずしも建て直す訳ではありません。出雲大社の場合は檜皮葺き(ひわだぶき)の大屋根を撤去して野地板などを修理し、新たに檜皮葺きの屋根を架け直したそうです。
5年の歳月を費やした修復期間中は、大きな素屋根に覆われて本殿が隠れていましたが、新しい屋根が輝いている今、ぜひ見に行ってみてください。

次に訪れたのは、「平田(ひらた)」です。

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宍道湖の西、肥沃な出雲平野に位置する平田は、出雲大社に参拝に来た近江商人によって開拓されたと言われています。江戸時代には新田の開発に伴い商業も盛んになり、出雲藩の中でも有数の町に発展しましたが、江戸後期に農家の副業として綿花栽培が行われるようになると、木綿の集荷・出荷を中継する川港町として大いに賑わいました。

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現在の平田はひっそりとした田舎町ですが、立派な商家が残っていて往時の面影を偲ばせます。中心部を歩くと、妻入りの家が並んでいるのが目につきます。これは近くを流れる斐伊川(ひいがわ)の度重なる氾濫に苦しめられた人々の知恵の跡です。平入りの家は壁を共有する形になって隙間ができませんが、妻入りにして家と家の間に40cm程度の隙間をつくるとともに、家の内部には片側に通り土間を設け、町が冠水した際にスムーズに水はけする工夫なのだそうです。

夕方に訪れたのは島根県の県庁所在地「松江(まつえ)」です。
市内には幾つもの観光名所がありますが、城好きの私がこの日まず向かったのは、もちろん「松江城」です(笑)
旅の初日(彦根城のところ)でも触れましたが、国内に現存する本物の天守(一般的には天守閣と呼ぶ)は12しかなく、松江城もその一つに数えられます。建物は天守しか残っていないのですが、石垣部分を地階とする5層6階の天守は、現存する中では姫路城に次ぐ二番目の大きさを誇り、重要文化財に指定されています。

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12ヶ所の城は、弘前城(青森)、松本城(長野)、犬山城(愛知)、彦根城(滋賀)、丸岡城(福井)、姫路城(兵庫)、備中松山城(岡山)、松江城(島根)、丸亀城(香川)、松山城、宇和島城(愛媛)、高知城(高知)ですが、皆さんはこのうち幾つの城を見たことがありますか?
私は現時点で宇和島城と高知城を除く10の天守を見ていますが、松江城が一番美しいお城だと思っています。美しいお城と言えば姫路城や松本城もありますが、どちらも小天守や櫓(やぐら)と一体になった連結型のため、非常に立派で見応えがあるのが特徴です。これに対して松江城は、最上階の望楼に向かって徐々に屋根が小さくなっていくバランス(逓減率)が絶妙で、建物としてのプロポーションが抜群なのです。

歴史をひも解くと、関ヶ原の役後、遠州浜松から隠岐・出雲24万石に移封された堀尾吉晴は、初め山間部にある月山富田城(戦国大名・尼子氏の本拠)に入城したのですが、城下町形成や治世の面から宍道湖の近くを拠点にすることにして松江城を築城します。城を築く亀田山の周りには天然の崖も川もなかったため、宍道湖を埋め立てて城の周囲に堀をめぐらし、石垣を造る大がかりな土木工事を行いました。

sotsu_松江城2.jpg  天守最上階の望楼から宍道湖を望む

この堀端の景色が今日までよく残っている松江は、ヴェネチアのように水の都として知られ、舟に乗って堀を巡るのが観光の目玉になっているぐらいです。

翌10日目は、城の周りを散策しました。
松江藩の武家屋敷町は身分によってエリアが分かれており、塩見縄手と呼ばれる城北側の地域には、藩の重臣たちが大きな屋敷を構えていました。屋敷が並ぶ堀沿いの道には巨大な老松が何本も生えていて、堀や石垣を含めたその景色は歴史情緒を感じさせます。

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その一角に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居と記念館があります。米国出版社の通信員として来日したギリシャ出身のアイルランド人ハーンは、英語教師として赴任した松江で士族の娘である小泉セツと結婚しました。松江の滞在は1年余りと短かったのですが、後年日本国籍を取得すると、松江(出雲国)にちなんで「小泉八雲」と名乗ったそうです。

塩見縄手の並びに明々庵(めいめいあん)と呼ばれる茶室があります。これは茶人大名・松平不昧(まつだいらふまい)として知られた松江藩主・松平治郷(まつだいらはるさと)が建てたもので、江戸藩邸にも移されるなど数度の移築を経た後、不昧公150年祭(昭和41年)を機に現在の地に移されました。

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千利休やその弟子たちが築き上げた茶の湯には、表千家・裏千家をはじめとする幾つかの流派が生まれましたが、その一つに石州流があります。徳川家の茶道師範を務めた片桐石州という茶人による武家好みの茶の湯で、松平不昧もその流れを汲む偉大な茶人でした(不昧流を創始)。
明々庵から北東に進んだ小高い丘の上には菅田庵(かんでんあん)という別の茶室があり、こちらは「1帖台目中板入り隅炉」という非常に珍しい形式で、松平不昧の代表作として名席の一つに数えられています。茶室のことを語り出すとまた長くなるので、以下省略します(笑)

後年、友人と松江を再訪した際に菅田庵を見学し、前述の舟巡りも経験しました。舟が低い橋の下を潜る時、橋を除けるために舟の屋根が倒れる光景のインパクトが強く、他の印象があまり残っていませんが(笑)

この日は松江を出てから鳥取県に入りましたが、この続きは次回お届けします。
(つづく)

岸 未希亜

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