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2019.08.09 / 建築と住まいの話

私の実家(熊本地震から3年)

私の実家は、熊本県益城町です。

2016年4月14日 21時26分 当地を震源とする震度7の熊本地震により、両親及び親族の人生が大きく変わる事となりました。
被災後3年目を迎えた両親の体験と、私の視点から見た熊本地震に関する話をさせて頂きます。
私が高校生の時に、50歳になる父親が突然勤めていた会社を退職し、祖父の代から暮らしていた木造平屋建ての住宅を解体、鉄骨3階建て店舗併用住宅を新築して、賃貸経営を始めました。1階が店舗、2・3階がアパート、2階の一部屋を自宅として、大手銀行から30年ローンの高額な借り入れをしてのスタートでした。
慣れない経営だったと思いますが、管理人を自分達で行いながら両親は必死で返済を続けてきました。
完済まであと2年と迫った年に地震が建物を直撃します。
前震では鳴り響く報知器のなかで、何とか駐車場に避難。居住者の方々の安全を確認するも、余震が続き不安な一夜を明かしたそうです。
避難後直ぐに、奇跡的に私と携帯が繋がり安否確認はできましたが、その後は翌日まで連絡が取れなくなりました。
翌日朝、居住者の方々の無事を再確認。建物は至る所で破損しているものの、倒壊する可能性は低そうだと感じていたそうです。ただ、余震が続き建物内で寝ることは怖くて出来ないので、駐車場での車中泊で凌ぐ事にしました。
私は熊本空港の被害が軽微でしたので、翌日直ぐに帰省する事を考えましたが、数日間の滞在が予定されるので、仕事の段取りをつけてから、16日に帰省する事にしました。
電話で両親に伝えると、若い親戚の人達が駆けつけてくれて、室内を片付けてくれた事、停電が直った事を知らされました。
少し安心して航空券の予約を行い、翌日に備えたのですが、想像出来ない事態が起こります。
4月16日 1時25分 二度目の震度7が益城町を襲います。本震です。
深夜の地震でしたので、車中泊のまま揺れが収まるまで必死で耐えたそうです。車内から見た建物はさらに大きく揺れ、倒壊すると覚悟したたそうです。
私は翌朝まで二度目の地震には気付きませんでした。
幸い両親の安否は確認できたのですが、熊本空港は閉鎖され直行便での帰省は不可能になりました。
直ぐに航空券の払い戻し通知が来たのですが、その時になって始めて、羽田発―熊本行では無く、熊本発―羽田行の逆を予約していた事に気付きました。
毎年帰省しているのに初めての事です。自分が平常心で無い事を再認識しました。
それから、熊本に帰るルートを探しだします。福岡までは飛行機、電車は県境の荒尾までしか運行しておらず、荒尾から益城町まではタクシーのみ。
荒尾の被害状況は分かりませんが、タクシー会社に電話で事情を説明しました。車は出せますが、おそらくは時間通りには荒尾まで着かないでしょう。博多から再度連絡を下さい。
冷静な回答に安心して羽田に向いました。
福岡空港から博多駅に移動、熊本に入る前に食料を調達しようと、駅で買える物を購入して熊本を目指したのですが、荒尾に付いて驚きました。
熊本全域が甚大な被害の様に報道されているのに、おそらく全くの無傷。パチンコ店まで営業しています。
約束通りに、待っていてくれたタクシーに感謝しながらも違和感は相当ありました。
運転手さんに話を聞けば、揺れは凄かったが、この辺りの被害はそれ程でもない事が分かり、途中スパーマーケットで再度食料を調達する事もできました。
渋滞はあるが道路被害は軽微で、予定より順調に進んで行く車中で私は、TVの報道ばかりで判断せずに情報を多く集める事が大切だと考えていました。
益城に近づき見慣れた景色に変わり始めた辺りから状況が一変します。
いたる所で道路、建物、擁壁などに被害があり、倒壊寸前の家屋が道路に傾いている場所もあります。益城町の町内は甚大な被害に見舞われていました。
余りの変わり様になぜここだけがと驚きました。距離にすれば5キロ程度なのに状況が違いすぎるのです。
なんとか自宅までたどり着き、両親の無事を確認できた時は安心しました。
それから直ぐ父親に連れられて、建物の被害状況を見に行きます。

屋上に設置された貯水槽、階段部分の破損
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共用廊下天井の破損
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近隣住宅の二階部分が敷地内に倒壊
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室内の状況
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近隣の擁壁が崩れ、住宅の二階部分が道路に倒壊
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余震が続く中での被害状況確認から実家の復興が始まりました。

第一部完
福本 慎一

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