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2018.11.20 / よもやま話

高木先生、感謝の集い

高校時代のサッカー部の監督が、今年の3月に定年退職を迎えました。公立高校のため、私たちの高校での在任期間は13年、幾つかの高校を転任し、最終的には副校長まで務められた先生で、専門教科は保健体育です。
先日、その先生ご夫妻のために「鎌倉高校サッカー部 高木先生ご夫妻 感謝の集い」というイベントが開催され、私も出席してきました。

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参加者名簿を見ると、15代(昭和58年卒~平成9年卒)にわたる教え子93名が名を連ねていました。会場はホテルの宴会場なので、卒業年毎(少ない所は2代まとめて)に円卓が並べられ、さながら結婚式が始まる雰囲気です。そして高木先生ご夫妻の入場も、円卓の間を縫うように「新郎新婦登場!」と同じ形で行われ、初っ端から盛り上がりました。
乾杯の挨拶は、赴任初年度の生徒だった大先輩が務められ、若かりし日の先生をいじって笑わせてくれました。当時は高木先生の上に太田先生という監督がいて、夏合宿の最終日に生徒を前にした太田監督は、「この合宿で一番成長したのは・・・高木だ」と言って生徒をズッコケさせたそうです(笑)

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1954(昭和29)年に創部した県立鎌倉高校サッカー部には輝かしい歴史があります。私の現役時代にも4つの公式戦(新人戦、関東大会予選、インターハイ予選、高校選手権予選)がありましたが、昭和51年から毎年のように県予選で結果(ベスト4、準優勝、優勝など)を残すようになっていき、昭和54年にインターハイ初出場を果たします。そして昭和58年、2度目のインターハイ出場に加えて全国高校サッカー選手権大会に初出場。さらに昭和60年にもインターハイ出場&全国高校サッカー選手権大会出場の「ダブル」を達成。この世代は鎌倉高校サッカー部最強世代です。
それは、ちょうど私が小学6年と中学2年の冬でした。日本テレビで放送する「全国高校サッカー」の画面に、神奈川県代表として「鎌倉高校」が登場したのです。高校受験では学区外の鎌倉高校に行こう、と決めたぐらいですから、サッカー少年にとって、そのインパクトは絶大でした。

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その昭和61年卒のエースであった堀孝史さん(前・浦和レッズ監督)は、高木先生と一番バトルした生徒だったということで、堀さんのインタビュー映像とともに、ドラマ「スクールウォーズ」の映像も交えたパロディVTRが流れ、会場は爆笑の渦となりました。

私が入学した昭和62年は太田監督・高木コーチ体制の最終年で、私が2年生になった昭和63年から高木先生が監督になりました。その年は、全国高校サッカー選手権の県予選で3年ぶりにベスト4まで勝ち上がり、神奈川県の高校生憧れの舞台「三ツ沢球技場」で準決勝を戦いましたが、湘南高校に敗れました。

3年生の時は、インターハイの県予選準々決勝で湘南高校にリベンジして、ベスト4に進出。神奈川県は2校出場できるため、あと一つ勝てば夢の全国大会でしたが、この年の神奈川県を席巻した桐蔭学園(関東大会、インターハイ、選手権で全て代表)に敗れ、全国大会出場は叶いませんでした。
選手権の予選も、当然上位進出するものと考えていましたが、大雨の試合で番狂わせを起こされ、私たちの「高校サッカー」は呆気なく終わりました。今でも悔しさがこみ上げてきます。

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この平成2年卒は、1年生の頃は部員25名だったのですが、2年生の時には13名に半減。桐蔭学園が何人ものプロ選手を輩出したのは例外としても、他校に比べて十分とは言えない戦力ながら、2年時は先輩の、3年時は後輩の力を借りつつ、「高い集中力」を武器に結果を残しました。改めて「よくぞこの戦力で」と思います。
同期のキャプテンが今回のイベントの司会を務め、積極的に人集めもしてくれたので、マネージャーを含めた同期14名のうち10名が参加。29年近く経ち、みんな歳を取りました。

先生に関する数々のエピソードが披露されるのを聞きながら、多感な少年たちを一つの目標に向かわせる高木先生の言葉選び、そして自分の時間とエネルギーを全て高校生に注ぐ姿が、改めて思い出されました。あの頃の先生はまだ30歳ぐらいだったのに、その若さでよく頑張っていたな、と(笑)

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こうして世代を超えて多くの教え子が集まったことは、先生の残した大きな足跡なのだと感じました。

岸 未希亜

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