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2014.08.12 / 建築と住まいの話

卒業旅行で巡る日本の町並み8

18年前の卒業旅行を再現する町並み歩きの第八弾ですが、いよいよ今回で最終回となります。当初は月に一度のペースで書くつもりでしたが、調べることも多くてペースが遅くなり、1年3ヶ月もかかってしまいました。
それでは最後の町並み探訪にお付き合いください。

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祖母に見送られて大阪を出発すると、JR東海道線(京都線)の新快速で京都まで行き、湖西線に乗り換えて近江今津へ向かいました。琵琶湖の畔にある近江今津駅からバスで約25分、滋賀県との県境を越えてすぐの所にある福井県若狭町(当時は上中町)の「熊川(くまがわ)」を訪れました。

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福井県は福井市を中心とした「越前」と、敦賀や小浜のある「若狭」からなりますが、越前は越中(富山県)や加賀(石川県)との関係が深く、若狭は京都に近い存在のため性格が異なります。
若狭湾の港町・小浜と琵琶湖畔の今津を結ぶ若狭街道の中間に位置し、若狭と近江の国境の町でもある熊川は、豊臣秀吉の命で若狭国の領主となった浅野長政が、国境警備のために整備した町です。その熊川は、小浜に上がる海産物を大消費地の京都に運ぶ重要拠点だったため、物資の集散地として大いに繁盛しましたが、特に「鯖街道(さばかいどう)」の宿場町としてよく知られています。鯖街道とは、小浜で水揚げされた鯖を京都へ運ぶルートのことですが、鯖が日持ちしない魚のため、腐らないように京都まで担いで走ったことに由来します。

その街道を歩いていると予期せぬ看板を目にしました。

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ちょうど改修中の町家に掲げられていた「旧逸見勘兵衛家住宅整備事業」の文字の下に「設計:連合設計社市谷建築事務所」と書いてあったのです。それはこの4月から自分が入社することになっている設計事務所の名前で、私が師事する建築家・吉田桂二の町づくりの仕事だったのです。

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熊川は1981(昭和56)年に町並み調査をして以来、なかなか地元住民の意見が一つにならず、町並み保存は足踏み状態が続きました。町並みを保存することによって「古いままの暮らしづらい家に住まなければならない」という住民の誤解は、どこの町でも生じる問題の一つです。そんな折、大雪で倒壊しかけた旧逸見家を町が寄贈してもらい、「この住宅改修を町並み保存の見本に」と予算を絞り出した結果、建物は見事に甦りました。

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外部は伝統的な意匠でありながら、内部は「暗い・寒い・汚い」というイメージを払拭した改修によって、熊川に安心して快適に住まう方法が提示され、住民の理解も得られたのです。旧逸見勘兵衛家の整備が熊川宿の保存と町づくりの転換点となり、調査以来15年の歳月を経て、ようやく1996(平成8)年に重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選定されました。報告書を読むと関係者の苦労が偲ばれます。

それから13年後の2009年、私は神奈川エコハウスに入社する直前、熊川宿を再訪しました。

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電柱は撤去され、アスファルトは土色の舗装に変わり、アルミサッシや新建材で痛々しい姿になっていた家の多くが、「鯖街道熊川宿デザインガイド」に基づく改修工事で生まれ変わり、町並みは見違えるような立派な姿になっていました。

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町並みの入口に建つ「道の駅・若狭熊川宿」は、吉田桂二の設計で1999年に竣工しました。資料館、トイレ、物産販売所、レストランからなる施設を、背後に控える町並みに配慮して群体の木造建築として設計しています。自分が入社して間もなく始まった仕事でしたが、「設計に関わりたいな~」と羨ましく眺めていたことを思い出します。

さて、近江今津に戻って琵琶湖を時計回りに回り(実際に時計回りに走る電車はなく、近江塩津駅で北陸本線に乗り換えて南下します)、最後の目的地である「長浜(ながはま)」に到着しました。
戦国時代、羽柴秀吉はこの地に城を築き、地名も「長浜」に改めて城下町づくりを行いました。楽市楽座による自由交易が明治維新まで続き、江戸時代を通じて町の商業は大いに栄えたそうです。また中山道の鳥居本宿から分岐して越前・加賀へ至る北国街道の宿場町としても賑わい、さらに浄土真宗大通寺の門前町としても発展した長浜は、3つの顔を持つ深みのある町と言えます。

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現在の長浜は「黒壁」の町として多くの人が訪れる人気の観光地です。キッカケは、「黒壁銀行」として親しまれた明治時代の銀行が取り壊されそうになった時、当時の姿に復元してガラス細工の店として再生したことによります。これが話題を呼んで観光客が増え、ガラスの店をはじめとした商店が増え、「黒壁スクエア」として町おこしの象徴となりました。黒壁もガラス細工も長浜の歴史とは基本的に無縁ではありますが、米原駅止まりだったJRの新快速電車が長浜駅終点に変更されるほど、京都・大阪・神戸からの観光客が途絶えることはないようです。

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そんな訳で、町並みとしてはあまり期待していなかったのですが、商店街を抜けた北国街道の両側に古い家が残っていました。焼き杉の黒い板壁の家が多いのは印象的でした。

また長浜は、国鉄の歴史においても重要な存在です。
長浜駅の琵琶湖側には、煉瓦積みの煙突が二つ並んだ洋風の旧駅舎が保存されていますが、これは日本で最古の駅舎なのです。現在は埋め立てによって湖岸が遠くなっていますが、明治時代は駅のすぐ横に船が接岸していたため、福井県の敦賀から運ばれた物や人は長浜で積み替えられ、琵琶湖の船便で京都や大阪へ輸送したそうです。京阪神へのターミナル駅だったため、今日まで残るような立派な駅舎が造られたのでしょう。

sotsu_長浜6.jpg 手前が北陸線電化記念館。右奥が鉄道文化館。左奥が旧駅舎

卒業旅行当時はこの旧駅舎しかなかったのですが、2000年に鉄道関係の資料館として「鉄道文化館」が竣工しました。さらに2003年には、当地で雨ざらしになっていたD51型蒸気機関車と、敦賀駅で赤錆びていたED70型交流電気機関車を展示する「北陸線電化記念館」が竣工しました。

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この2つの建物を設計したのも建築家・吉田桂二なのですが、私が入社した頃から集成材を使わない木造の大架構に取り組み始めていて、その3作品目にあたる鉄道文化館は小径丸太で造るアーチ型の大空間になっています。
この鉄道文化館は自分の担当ではなかったので、横目で見ていただけですが(笑)、次の北陸線電化記念館は自分が担当になり、実施設計だけでなく現場監理も行いました。こちらの建物は2つある車輌の上にトラス(洋小屋)を組んで、その両者をつないだマンサード屋根になっています。側面にもA型トラスを組んで越屋根がリズムよく並んでいるため、洋館風のデザインになっています。
旧駅舎を含めた3施設を総称して「長浜鉄道スクエア」と呼び、大人300円(小中学生150円)で入館できますので、近くに行った際はぜひ足を運んでみてください。

それにしても、卒業旅行で最後に訪れた町を舞台に、後世に残る建物の建設に関われるとは・・・。当時の私は知る由もありません(笑)


最後は18年前の話から逸れてしまいましたが、私の卒業旅行はいかがでしたか?
ブログの中で自分を写した写真が何枚も登場しましたが、あれは他人に撮ってもらった訳ではありません。人通りのほとんどない町並みだと現実的に頼むことができませんし、何よりもアングルが変わってしまうのは困るので、全て三脚を据えてタイマー撮影をしました。

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三脚を持っての電車旅行は少し骨が折れましたが、18年後にこうしてブログで紹介できたのですから、苦労した甲斐があったというものです(笑)

卒業旅行で巡る日本の町並み1 (彦根、五個荘、近江八幡)
卒業旅行で巡る日本の町並み2 (富田林、黒江、龍野、矢掛)
卒業旅行で巡る日本の町並み3 (高梁、吹屋、倉敷)
卒業旅行で巡る日本の町並み4 (鞆の浦、尾道、竹原、錦帯橋、柳井)
卒業旅行で巡る日本の町並み5 (萩、長府、津和野)
卒業旅行で巡る日本の町並み6 (大森、出雲大社、平田、松江)
卒業旅行で巡る日本の町並み7 (米子、倉吉、余部鉄橋、城崎、出石)


皆様、長期にわたってお付き合いいただき、ありがとうございました。

岸 未希亜

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