次女との旅行も8回目になります。当初は春休みに行くつもりでしたが、3月は旅行先の山道が雪道になる恐れもあったので5月に延期。今回は群馬県の一部と栃木県ということで、1泊2日のショートバージョンです。
皆さんは栃木県と言えば何を思い浮かべるでしょうか?
いちご、宇都宮餃子、日光東照宮、あしかがフラワーパーク、那須高原、U字工事などがあると思いますが、神奈川県の小学生であれば、修学旅行で必ず日光や中禅寺湖を訪れますよね。ところが娘が6年生になったのは2020年。新型コロナの行動規制によって修学旅行が中止になった年です。「娘をいつか日光に」と思っていた父は、まだ訪れていない重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)が栃木市にあるので、この時を伺っていました(笑)
そして今回は片道200km弱ということで、夜行バスは利用せず、初めて家から車で向かうことにしました。通勤渋滞を避けるため、早朝5時45分に家を出て圏央道から関越道、そして北関東自動車道へ。

最初に訪れたのは群馬県の桐生(きりゅう)です。ここ桐生市には、桐生新町という2012年に選定された重伝建地区があります。歴史を辿ると、桐生は奈良時代から1300年続く絹織物の産地と考えられていますが、桐生織物が商品として普及し、産業として確立したのは江戸時代中期以降のこと。江戸時代には「西の西陣、東の桐生」と謳われるほどの地位を築き、大正から昭和初期に最盛期を迎えました。


桐生新町の町並みは、桐生天満宮から南へ延びる本町通りの両側に展開します。比較的新しい町並み本の写真でも電柱や電線が写っていましたが、訪れてみると電線が地中埋設されて電柱が無くなっていたので、非常にスッキリしていました。一番の見どころは矢野本店の商家と蔵で、キリンビールの木製看板が目印です。他にも重厚な商家が点在していますが、町並みとしての充実度(完成度)はまだまだで、改修工事による今後の修景が待たれます。

本町通りの突き当りに神社があったのでお参りしました。この桐生天満宮は拝殿・幣殿・本殿が一体になった権現造(ごんげんづくり)で、2023(令和5)年、国の重要文化財に指定されたそうです。思わぬ掘り出し物に出会ったような感じでしたが、裏側を見て納得。


流造(ながれづくり)の本殿と幣殿は、土台や柱に至るまで極彩色の立体彫刻で埋め尽くされています。関口文治郎(せきぐち ぶんじろう)という名工が手掛けたそうで、私もあまり見たことがない迫力ある建物でした。

天満宮と道路を挟んだ向かい側に群馬大学理工学部(桐生キャンパス)があり、敷地内すぐの所に、時代を感じさせる洋風建築が建っています。これは1916(大正5)年に建てられた桐生高等染織学校の校舎です。創立時は敷地中央にありましたが、群馬大学の校舎を新築した1972(昭和47)年に、本館の一部と講堂を現在の場所に移設(曳き家)したそうです。

木造2階建て(講堂は平屋)、延床面積987㎡(約298坪)の規模で、玄関アーチや破風の装飾などにイギリスのチューダー様式を取り入れた意匠です。講堂の2階部分には3方に桟敷席があり、平屋と言っても空間的には3階建て並みの高さと広さがあり、見応えのある建物でした。
現在は、群馬大学工学部同窓記念会館としてイベントなどに利用されています。この日は就職説明会の準備がされているようでした。

次に訪れたのは臨済宗の寺院である宝徳寺。ここは「桐生で人気の観光スポット」を検索すると1番に登場するお寺です。何が人を惹きつけるかというと、本堂の床に景色が反射する「床もみじ」。28畳ある漆塗りの床に100本以上のもみじが映り込みます。


春・夏・秋の期間限定で公開されますが、訪問したのは春の公開が終わった後だったので、若葉の「床もみじ」を見ることはできませんでした。奥の間だけは漆の床にカラフルな和傘を飾っていて、インスタ映えする写真を撮ることはできましたが、手前の部屋には畳が敷かれています・・・

この広い座敷の畳が漆塗りの床になると、庭のもみじが写り込むという訳です。秋のもみじ(紅葉)は行列覚悟で行くしかないそうなので、時間に余裕のある旅で訪れたいですね(笑)
次に訪れたのは足尾銅山跡です。小中学校の社会(歴史)で必ず学ぶのが足尾銅山の鉱毒事件と、それを国会や日比谷で訴えた衆議院議員の田中正造でしたね。40年経っても記憶の片隅に残っています。

足尾銅山観光という施設があり、坑道内と資料館を見学できます。まずはトロッコに乗って坑道内部へ入り、そこから徒歩で坑道内を歩きます。イメージとしては蟻の巣ですが、江戸時代から約400年にわたって掘り開かれた坑道の総延長距離は、何と東京-博多間の距離に匹敵する1,234kmもあり、驚愕です。

資料館では鉱石や鋳造貨幣、模型などが見られます。特に江戸時代の採掘から貨幣造りの工程が模型展示でよく分かりました。

山の方へ上って行くと、かつての遺構も残っています。まず現れたのは足尾銅山記念館です。この真新しい建物は、古河グループ創業150周年記念事業として創業時の足尾鉱業所を復元したもの。元の建物(足尾鉱業所)は、東京駅を設計した辰野金吾らが率いた辰野葛西建築事務所による設計です。

建物は非常にリアルに復元されているので、新築でも嫌な感じはしません。この日は定休日で見学はできませんでした。

松木川を上流に遡っていくと、古河橋という鉄橋が現れます。これは足尾銅山の専用電気軌道を敷設した際に開通した鉄骨のトラス橋で、1891(明治24)年に造られたものです。その後は道路橋に転用され、1993年に新古河橋が造られると歩道橋になり、現在は老朽化で立ち入りは禁止。135年前に造られたことも驚きですが、2014年に国の重要文化財に指定されるだけの価値ある建造物です。

橋の横には古河鉱業(現在の古河機械金属)の本山精錬所跡があり、1919(大正8)年に造られた大煙突が今も立ち続けています。1989年に操業停止となった後、経産省から解体・撤去の指導がありましたが、足尾銅山の世界遺産登録を目指す運動が始まったことで、日光市側の要請を受けた古河グループは、大煙突を含む11施設・機器を残すことにしたそうです。

次に訪れたのは中禅寺湖。約2万年前に男体山の噴火によってできた堰止湖です。「日本一標高の高い湖」には諸説あり、日本記録に認定されているのは御嶽山二ノ池(長野県/標高2,905m)ですが、ダム等の人造湖を除く湖面の面積1㎢以上(池や沼と区別)という条件にすると、標高1,269mの中禅寺湖が第1位となるそうです。
かつては神仏への信仰に基づく修行の場で女人禁制とされていましたが、明治中期から昭和初期にかけては、欧米諸国の大使館別荘が建設され、避暑地として賑わいました。


公開されている建物の一つが英国大使館別荘です。黒い板張りのモダンな外壁が目を惹くため、新築した真新しい建物かと思いましたが、1896(明治29)年に建てられた別荘を改築したものでした。外壁を黒く塗ったのは後世のことだそうです。創建者は、明治維新にも深く関わったアーネスト・サトウ(当時は英国人通訳)。激動期の1862~1882 年を日本で過ごしたサトウは、1895年に日本全権公使として再来日すると、すぐに日光に別荘を建築したそうです。
中禅寺湖を望む景色は素晴らしいものですが、建物は隣に建つイタリア大使館別荘の方が魅力的です。


イタリア大使館別荘は、杉皮張りの外壁と障子のようなガラス戸の大開口が外観の大きな特徴です。英国大使館別荘より新しい1928(昭和3)年の建設で、設計者は建築家のアントニン・レーモンド。巨匠フランク・ロイド・ライトの下で働いていたレーモンドは、帝国ホテル設計のために来日し、3年後の1922年に日本で設計事務所を開設しました。


1階の居間・食堂・書斎は50帖以上の広さがあり、左右に暖炉を備え、湖側にはソファーの並ぶ広縁があります。調度品は洋風のものですが、内装には杉皮や割竹が用いられ、空間的にも和風建築の要素が多く盛り込まれています。特に天井のデザインは凝っていて、目を奪われます。


2階は湖側に寝室が並び、大使の間だけは約15帖あるデラックスルーム。中禅寺湖を望む眺めも素晴らしく、心身ともにリラックスできそうな空間でした。

初日の最後は滝巡りです。中禅寺湖の北側にある竜頭の滝は、華厳の滝、湯滝とともに奥日光三名瀑に数えられます。小学6年以来43年ぶりに訪れたのと、当時は観光バスで運ばれて来たので周辺の景色は全く覚えていませんでしたが、「龍頭の茶屋」という店先から滝を見た瞬間、「来たー」。実際に来ているのですが、まるでデジャヴのような感覚になりました(笑)

最後に訪れたのは、袋田の滝(茨城県)、那智の滝(和歌山県)とともに日本三名爆に数えられる華厳の滝です。ここも「修学旅行以来だ」と思っていたら、妻と紅葉を見に来たことがあったのを失念していて、うっかり失言(笑)
記録的な春の雨不足によって、中禅寺湖の水位は過去最大級に低下しています。そのため、通常は水門から毎秒1~2.5t(㎥)の水を放流している所を、土日祝日でも毎秒0.2t(㎥)、平日に至っては毎秒0.1t(㎥)の放流量に抑えており、滝の流れが非常に細くなっていました。このチョロチョロ流れる華厳の滝が今しか見られない姿だとすれば、貴重な体験だったかもしれません。
しかも夜間は放水を完全に停止しているため、営業時間が終わる夕方には水門が閉じられ、さらに滝が細るそうです。従業員の方に「見学するなら朝がお勧め」と言われました(笑)

しかし夕方に見たお陰で、滝の注ぎ口と日没前の夕日が重なり、幻想的な雰囲気を味わうことができました。
(つづく)
岸 未希亜

