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2016.10.29 / 建築と住まいの話

信州の町並み4 須坂

前回は「真田丸」に絡めて上田と松代を紹介しましたが、町並みについては少ししか触れませんでした。今回は、松代の北東、長野市中心部から東に位置する「須坂(すざか)」を紹介します。

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須坂は、真田氏の城下町である松代、栗菓子と葛飾北斎ゆかりの地として観光客に人気の小布施、そして善光寺でも知られる県庁所在地の長野に囲まれ、他県から来る観光客にはあまり知られていない存在です。しかし「古い町並み」という観点からは、他の3ヶ所よりも断然「須坂」が魅力的なのです。
江戸時代、須坂藩(堀氏)1万石の陣屋町(城があれば城下町)だった須坂は、稲荷山(北国西街道最大の宿場町:重要伝統的建造物群保存地区)と飯山(飯山城下)を千曲川に沿って結ぶ「谷街道」の宿駅がある、静かな田舎町でした。現在は、居館の跡地に奥田神社が建っています。

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しかし明治時代になると、近代製糸業の町として大いに繁栄します。
明治5年に群馬県の富岡製糸場(世界遺産)が操業を始めると、富岡や前橋の製糸工場を視察した須坂の商人たちは、早くも明治7年に洋式製糸場を須坂に建設。明治8年には、小規模製糸業者が集まって「東行社」という製糸結社を結成しました。これは、「太さの揃った生糸を一度に大量に出荷してほしい」という横浜市場の要請に応えた共同出荷の組織です。製糸方法の同一化、工女の待遇面の協定、社員相互の立ち入り検査などを行って製糸品質の向上を目指した組織で、全国に先がけるものだったそうです。
こうして、群馬県富岡市、長野県岡谷市とともに輸出用生糸の生産地として発展した須坂には、塗屋造りの商家や蔵が建ち並ぶ、重厚な商家町が生まれました。

長野電鉄の須坂駅で下車すると、駅前から放射状に伸びる道が2本あって方向感覚を狂わされます。製糸業の発展で急速に都市化が進んだ須坂は、道路計画が追いつかないまま市街地が拡大し、道路が入り組んで分かりにくいのです。
右の通りを進むと、大きな交差点にぶつかり、左へ折れて少し歩くと斜めの道があって、「蔵の町並み」が始まります。

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この道が谷街道で、古い町家や蔵が並ぶ風情ある通りです。旧道で通過交通も少ないため、道がアスファルト舗装ではなく、石畳風の仕上げになっている点も好感が持てます。

先に進むと「中町」の交差点があり、ここで交差するのが本町通りです。本町通りは、小布施の方から南に向かって歩いて行くと緩い登り坂になっています。

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小布施寄りの春木町には、「製糸王」と言われた越寿三郎邸(登録有形文化財)がある他、白壁の家が幾つも並んでいます。
越寿三郎(こしじゅさぶろう)は、製糸工場を集めて「山丸組」を結成し、全国に繭買付け所を設けたり、県外にも製糸工場を造るなどして、日本製糸業界のトップ10に入る大企業に成長させました。その他にも彼は、電気会社をつくって発電所を建設し、資金調達のために銀行も設立。商人にも学問を学ばせるため、須坂商業学校を創立するなど、須坂の社会資本拡充にも貢献しました。

製糸場で働く工女の数は最盛期には6000人を超え、工女たちの賄いのために、町には味噌・醤油醸造所も多くありました。

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本町通りから少し外れた所に、塩屋醸造(登録有形文化財)が残っています。江戸時代から続く老舗で、現在も古くからある蔵を利用したり、明治期の機械や桶を使っているそうです。

本町通りは、菅平高原から須坂を経て長野市内へ向かう国道406号線と重なり、かつては大笹街道と呼ばれました。信号や道路標識、電柱・電線などが目障りですが、両側には塗り屋造りの町屋が並んでいます。上り坂をさらに南下すると、左側にひと際立派な遠藤酒造の建物が見えてきます。

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北信濃と関東を結ぶメインルートは、当時も北国西街道(善光寺街道)から中山道へ続く道でしたが、距離が長い/宿場が多い/公用荷物優先のため、商用荷物は日数を要して経費もかさむ、という難点がありました。そのため、安い輸送経費で荷もあまり傷まずに早く運ぶことができる大笹街道は、米・菜種油・たばこ・木綿、そして生糸などの商用荷物が大量に運ばれ、一時は北国西街道をしのぐ賑わいだったそうです。

最後に登場するのが、「豪商の館・田中本家」として公開されている田中家です。

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江戸中期に商売を始めた田中家は、代々須坂藩の御用達を務め、名字帯刀も許された北信濃屈指の豪商でした。約3000坪の敷地を土蔵と土塀でぐるりと囲った豪壮な屋敷構えは圧巻です。

現在の静かな町を見ていると、製糸業の絶頂期だった大正期から昭和初期にかけての賑わいは想像できませんが、立派な家や蔵がこれだけ多く残っていることが、その証左なのだと感じました。

岸 未希亜

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