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2024.03.03 / 建築と住まいの話

信州の町並み7 妻籠

昨年8月以来となる、信州の町並みシリーズ第7弾です。前回は「戸隠(とがくし)」を紹介しましたが、今回紹介するのは、中山道42番目の宿場町である「妻籠(つまご)」です。ここは「南木曽町妻籠宿」として、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)にも選定されています。

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中山道は東海道とともに、江戸と京都を結ぶ江戸時代の幹線道路でした。大々的に開発された東海道と違って、中山道六十九次には古い宿場町の名残を留めている場所が多いのですが、中でも「木曽11宿(贄川~馬籠間)」は昔日の面影が濃厚に感じられます。

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今でこそ観光地としての知名度も高い妻籠ですが、1965(昭和40)年頃は住む人もまばらな典型的な過疎集落でした。高度経済成長の波に乗って人々が争って都市に移り住んだ時代、妻籠も例外ではなく、崩れかけた空き家が並ぶ崩壊寸前の状態だったそうです。
そんな時代に抗うように、昭和30年代から保存に向けての歩みが始まります。自分たちの財産であるこの町並みを美しく蘇らせて人を呼ぼう、妻籠を住める町に再生しようという住民運動を行政や学者がバックップし、国の「明治百年記念事業」の一つに加えることに成功。まず脇本陣林家住宅を「奥谷郷土館」として開館し、1968(昭和43)年から3年にわたって中心地区の保存工事を行いました。
1971年には「妻籠を守る住民憲章」を制定、1973年に妻籠宿保存条例が制定されるなど、妻籠は町並み保存活動の先駆的存在です。

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この妻籠の成功例を見て、全国各地で町並み保存運動が活発化したと言われています。同時期に日本各地で起こりつつあった住民運動は、妻籠の保存事業の報道に勇気づけられ、連帯の道も開かれました。こうした保存運動が引き金となって、1976(昭和51)年に国選定の重要伝統的建造物群保存地区の制度が制定されました。それまでの文化財制度は、建物単体での価値しか評価されませんでしたが、「建造物群」という通り、「町並み」としての文化的価値が評価されることになったのです。

2024年3月時点で、重点建地区は43道府県105市町村127地区にまで広がっていますが、制度が始まった1976年に選定を受けたのは僅かに7地区です。武家町の角館(秋田県仙北市)、通称「白川郷」の白川村荻町(岐阜県)、門前町の京都市産寧坂、茶屋町の京都市祇園新橋、武家町の萩市堀内地区と萩市平安古地区(山口県)、そして宿場町の南木曽町妻籠宿。何れも50年前から君臨する町並み界の長老たちです(笑)

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白川村荻町

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京都市産寧坂

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萩市堀内地区

妻籠は、本陣1、脇本陣1、旅籠31という中規模の宿場町でした。町の中ほどに桝形と呼ばれるクランクがあり、その北側(江戸寄り)の中町に本陣や脇本陣があります。本陣は1995年に復元された建物ですが、脇本陣は明治百年記念事業の目玉でもあった建物で、「奥谷郷土館」として公開されています。

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奥谷郷土館

中央高地(信濃・美濃の山地)には、豊富な森林資源を背景にした板葺き屋根の民家が分布していました。妻籠の伝統的な町屋は、勾配が比較的緩い板葺きの石置き屋根です。

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家の大きさは、間口が2間半の小規模な町家から、間口7間に及ぶ大規模の町家まで様々。街道側に軒を出す平入り屋根が多く、古いものは平屋、中程度のものは背の低いつし2階、後世のものは2階建てで、通り土間をもつ形式が一般的です。

町並み一番の見どころは、桝形のすぐ南側(京都寄り)にある石段の小路です。車が通過できるようにすぐ横に新道が付いていますが、石段を下りてから屈曲し、また石段を上がる方が旧道です。妻籠はどこを切り取っても絵になりますが、この石段と旅籠の松代屋を見れば「あっ妻籠だな」と分かります。

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重伝建地区は町並みの保護エリアを設定しています。保護エリアの建築は勝手に壊したり改修したりできません。ほとんどの地区は保護エリアが1桁か2桁ヘクタール(6.4とか20.5など)なのですが、妻籠だけは1245ヘクタールと群を抜いて広大です。
これは、「妻籠を眺められる」ホテルなどが妻籠周辺の山に建設されて、景観が台無しになることを防ぐためです。重伝建地区誕生のキッカケとなる町並みだけに、志の高さも生半可ではありませんね。

岸 未希亜

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