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2016.05.23 / 建築と住まいの話

斜面に残る町並み

前回のブログで軽く触れた山間の町並み「早川町赤沢」を紹介します。
昨夏、甲州市塩山の山村が山梨県内2つ目の重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選ばれ、日本全国にある重伝建地区は110ヶ所にまで増えました。「早川町赤沢」が重伝建地区に選定された1993(平成5)年には、まだその数は35しかなく、永らく山梨県では唯一の重伝建地区でした。

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早川町は山梨県南西部の山間に位置する小さな町で、藤沢市から見れば富士山を挟んだ反対側の場所です。すぐ近くには日蓮宗総本山の身延山久遠寺があり、JR中央本線の甲府駅とJR東海道線の富士駅を結ぶ「JR身延線」が富士川沿いに走っています。

日蓮がこの地にたどり着き、久遠寺を建立したのは13世紀後半ですが、江戸時代中期になると、お伊勢参りのような信仰の旅、信仰にかこつけた物見遊山が始まり、久遠寺にも多くの参詣客が訪れました。
身延山(標高1152m)のすぐ隣りには日蓮宗の霊山である七面山(標高1982m)があるため、人々は久遠寺から奥の院(身延山山頂)に登り、そこから身延山の裏側に位置する赤沢集落に下ります。そしてこの宿場で一泊し、翌日に七面山に登るコースが一般的でした。

赤沢集落は上村と下村に分かれていて、上村は石畳の急な坂道に沿って家が建っています。山頂から下りてくると、緑深い山裾に幾つかのトタン屋根が見えて来て、最初に目の前に現れるのが「えびすや旅館」です。

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よく見ると、名前の書かれた木札が軒下にたくさん掛かっていました。

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同一の信仰を持つ人々による結社・団体のことを「講」と呼びますが、その各講の定宿を示す印がこの「講中札(こうちゅうふだ)」で、マネギ札、板マネギとも呼ばれます。えびす屋には82枚の札が掛かっていて壮観です。赤沢は信仰のための宿場ということで、講中宿(こうちゅうじゅく)と称されていますが、これは全国的にも珍しいものです。

さらに下ると坂は少し緩くなり、大きく蛇行して登って来る狭い車道と交差します。この辺りには玉屋、両国屋、大黒屋などの旅館と妙福寺があります。

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そしてその先に、赤沢の代表的な景観が現われます。

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石畳の坂道が急激に下り、左に「萬屋」、右に「喜久屋」が見え、その間から七面山が見える場所です。家が軒を連ねる町並みではなく、急斜面に沿って家が建つ特殊性がよく表れている景色です。

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その先で道が大きくカーブする所も、重伝建地区には珍しい特徴的な景観を見せています。
地勢が緩やかになっている下村は、家々が少し広がって建っています。

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敷地も広く使えるため、赤沢の草分けと言われる大阪屋、江戸屋といった大きな旅館もここに残っています。

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講中札が96枚も掛かっているのが大阪屋です。大阪屋は赤沢の旅籠の特徴をよく残しており、1階の座敷周りにL字型の縁側を付け、その外に土間を巡らしてあります。これは、大勢の参詣客が一斉に草履を脱いで家に上がれるための工夫です。

明治初期には9軒の旅館があり、明治期から昭和20年頃までの最盛期には、赤沢を一日に千人以上の人々が行き交ったと伝えられています。9軒の収容人員は400人程度だったそうなので、ピーク時には旅館の蔵や周囲の民家にも宿泊させたり、第1陣の客が何時間か仮眠して出発すると、第2陣を泊め、さらに第3陣まで受け入れるという、一日3回転の営業もあったというから驚きです。
しかし、車社会となって道路が整備されると、身延山から七面山へ徒歩で向かう参詣客は減り、現在も営業を続けているのは「江戸屋」1軒だけとなりました。

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山梨県の中でも人口の少ない早川町。その山中にひっそりと佇む赤沢。かつて多くの参詣客が行き交ったとは信じられない静かな集落ですが、本栖湖からもそう遠くないので、ぜひ足を運んでみてください。

岸 未希亜

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