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2015.12.29 / よもやま話

桂二さん

2015年はいろいろな出来事がありました。これまでにないスケールの大きな住宅や、ギャラリーの計画もありました。2年近く当社のことを見てくださっていたお客様と結ばれたかと思えば、一目で気に入ってくださってトントン拍子で進んだお客様もいました。
アースデザインオフィスの仕事としては、昨年始まった山梨での木造学校の後半があり、長野では住宅とお寺の庫裏の計画がありました。エアサイクル工法を使ったモデル住宅の設計も大きなプロジェクトでした。

これだけの幅広い仕事をさせていただけるようになったのも、私が師事した建築家・吉田桂二(よしだけいじ:弟子は親しみを込めて「桂二さん」と呼びます)のお陰であり、感謝してもしきれないぐらいです。

その桂二さんが今月、帰らぬ人になりました。享年85歳でした。

私が桂二さんの存在を知ったのは1992年、大学3年生の時です。キッカケは大学図書館で見つけた1冊の本でした。

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そこには、ペンで細かく描かれた日本の町並みや民家があり、町並み保存の仕事があり、民家や数寄屋のような日本の伝統的住宅を彷彿とさせる、現代住宅の設計事例が紹介されていました。
大学の建築教育では知ることのできない世界が広がっていて、初めて目にした時に「これだーっ」と思った記憶があります。

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大学4年生になると、卒業論文を書くために研究室を選ぶ訳ですが、その少し前に桂二さんの存在を知ったことは幸運でした。
私はもっと民家を学ぼうと考え、建築史研究室にお世話になります。大学4年から大学院1年にかけての2年間で自分なりに勉強を重ね、大学院2年の春に初めて桂二さんの元を訪ねました。

コネもなく、アルバイトで顔を売っていた訳でもなく、毎年採用があるかも分からない小さな設計事務所(と言っても当時は25人ほどいて大所帯)に普通に就職活動をした稀有なケースでした。
しかも会社は桂二さんの個人事務所ではなく、共同設計を掲げて4人で設立した会社(連合設計社市谷建築事務所)だったことを初めて知り、4人の面接を受けて生きた心地がしませんでした(笑)

それでも、所員が辞めたばかりだったこともあり、私は採用されました。本当に運が良かったと思います。

事務所に在籍したのは13年4ヶ月。長いようであっという間だった気がします。
初めは当然ながら下働きですが、初めて桂二さんの仕事に触らせてもらった「古河文学館(茨城県古河市)」や、「坂本善三美術館(熊本県小国町)」の駐車場に建築した「公衆便所」に携われた時はワクワクしたのを覚えています。
初めて桂二さんが設計する住宅の担当になったのは、藤沢市片瀬山の住宅(竣工1998年)でした。

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この家は、神奈川エコハウス(当時は神奈川エアサイクル住宅)が桂二さんに建て主を紹介して実現したもので、神奈川エコハウスにとっては桂二さんに設計してもらった8棟目の住宅であり、最後の作品です。
それ以前から桂二さんは、PACというエアサイクルグループで会員工務店の指導や、ユーザー向けのセミナーをしていたのですが、当社も多大な影響を受けたそうです。
そして年に1棟ぐらいのペースで設計をお願いし、遂に8棟を実現。桂二さんの設計した家を1社で8棟も施工している会社は稀有で、当社はこの経験を生かして自社設計の腕を磨いていきます。

そんな訳で、桂二さんは神奈川エコハウスにとっても師匠と呼べる存在なのです。ちなみに、内弟子以上に桂二さんを慕う外弟子は日本じゅうに多くいます。

私の方はその後、住宅の設計監理だけでなく記念館の設計監理をする機会もいただき、後年は地域工務店とのコラボで、漸く基本設計(プランニング)の経験も積めるようになりました。そして桂二さんが主宰する木造建築学校の講師を務めたことで、プランニングが上達し、人前での講義も臆することなくできるようになりました。全て、今日の仕事に生かされており、本当にありがたいと思います。

2009年、そんな私が神奈川エコハウスに入社しました。展示場の閉鎖による新しいモデルハウスの設計依頼がキッカケだったのは偶然の産物ですが、桂二さんの敷いたレールの上を走っているような気もして不思議な感じがします。

師が去ってしまった2016年、桂二さんの志を継ぐ他の弟子とともに、後世に永く残っていく普遍性の高い「日本の家」をつくっていきたいと思います。

岸 未希亜

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